ひとり読書会「うつ」の構造、第3章

ひとり読書会「うつ」の構造、第3章 

 内因性うつ病とは?、のその前に。牛島定信先生

大御所というか超有名どころの、精神分析の先生だ。学会でのご発言もおそらく何度も聞いていて、納得できる点が多い。(もちろん精神分析の学会なんてものには行かない。精神神経学会とか、そういうのだ。)だから
『「うつ」の構造』第3章も期待して読んだ。

読みながら、れれれ、じゃあ内因性うつ病って一体なんなの?と考え込んでしまったのだけど、その前に印象的だったことを書きたい。印象的というよりは、よくぞ分かってくれました、そういう人もいてヤレ安心って感じである。

そのまま引用する。・・・現在は、すでに保育園ないしは幼稚園において、孤立ないしは一人遊びを受け入れる環境にはなく、何かと集団での生活を強いる社会的風潮にある。・・・幼児期からシゾイド的な生活が保障されない状況にあるといわねばならない。それだけに、性格の基本とは逆方向の生き方を強いられることによって人格的な歪みをきたすことになっているのである。(引用ここまで)

あ、あれ? 引用するためにもう一度読んでいたら「人格的な歪みをきたす」と書いてある。そうすか? 歪みっすか? 今はやりのレジリエンスとは云わないでっか? ちょっと憮然としたのだけど、まあレジリエンスが良い方に働いて強くなる人も、悪い方に働いて「歪む」人もいるというか、まあ大抵はそれが混ぜこぜになっていると思うので、いいことにする。

分かってもらえたと思うのは「孤立ないしは一人遊びを受け入れる」ことが良いニュアンスをもって、「何かと集団での生活を強いる」ことが悪いニュアンスをもって、「シゾイド的な生活が保障される」ことが良いニュアンスをもって書かれていた(と私は解釈した)からだ。

 

 ひとり読書会「うつ」の構造、第3章  

 学校教育(保育園や幼稚園も含めて)は社会化するための装置なので、「孤立」「一人遊び」から集団に入れるよう「成長させる」、「シゾイド的な生活」を矯正することが正しいってのが前提だ(と思う)。そうでないのを「受け入れる」「保障する」と書いてくれただけで、やれやれ助かったと感じる。

・・・まったく学校ってのは「シゾイド」にとっちゃ辛いところだ、人間にはレジリエンスが働くので結構どうにかなるといえば、どうにかなるもんだけど、互いに厄介なことには変わりがない。

以前にも書いたけど、学校教育には大きな矛盾がある。強制されて選択の自由がないものを楽しめ、積極的に参加しろというのだ。しかも多くのシゾイドにとって苦手部門でそう言われる。国語算数の授業で仏頂面していても叱られないが、運動会やら合唱祭、家庭科実習でふて腐れた顔していると大抵はもの凄く怒られる。学校って、つくり笑顔、つくり笑い、つくり盛り上がりを勉強するトコロでっか?

そうだよ当たり前じゃん、何しろ社会化の装置なんだからって今では思うのだけど、子どもの頃にはそれが一番ナットク行かなかった。

そこを突きつめると、社会化の要素のうち空気を読んで従順に、協調して動くことがまず求められる人はその訓練を集中的に、読み書き算盤が必要な人はそれを教える装置に、巧妙に振り分けられているなあと思うけど、あんまり書くとヤバそうなのでこの辺でやめる。

あ、とにかく牛島先生が本人の性格と周囲の環境との相性を重視していることに、とても納得したのだった。何ていうか精神分析は生育歴やらそこからきた本人の人格構造にばかり目を向けて、環境の影響を考慮しないイメージがあったので。ていうか精神分析に限らず、そういう風潮が強いと常々感じているので。

肝心の内因性うつ病については、次回に。

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