一遍聖絵展に行ってきました

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一遍という坊さん、名前しか知らないけど国宝になってる絵を拝める貴重な機会だからっていうので、野次馬根性で出かけてみた。

一か所目、藤沢市遊行寺。立派な門構えの、由緒ありげな寺。しかし行ってみたらば墓地分譲の宣伝をしていた。栄光も今は昔、自助努力で経営しなさいってことか。まあね、国家権力で飼われているより、私はずっとかう。  ここで、一遍がどんな坊さんだったかのアウトラインを知る。踊って南無阿弥陀仏を唱えたら浄土へ行けると、日本全国を説いてまわった人。が、、、死んだ後に弟子たちが道場を作り、教義を作りして有力な宗派へと成長させ、政権と結びついて庇護され・・・あとは知らん。

二か所目、歴史博物館。面白い絵が多かった。ある寺を訪ねたが部屋に入るのを断られ、縁側にうずくまって寝た一遍。後でエライ人と分かって丁重に招じ入れられたそうだけど、そんなことより縁の下で寝ている浮浪者だの猫だのが、一遍と一緒の絵に描かれていて良い。

あと片瀬の浜で説いていたら「紫雲」が湧いて見咎められ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と答えた場面。「紫雲」って信徒が焚いた線香の煙かと思ったら「不思議な現象」だとされているらしい。とにかく一遍は、ほんなこと わしゃ知らんいねみたいに言ったらしい。  ここに展示されていたのは、丈は膝までの、重々しさを演出するために黒く染めたりしていない、ざらざらの麻の僧衣。なるほど聖絵のなかで一遍は乞食風というか、下働きするときの格好というか、そういうのを着ている。

三か所目、今日の金沢文庫。建物に行くまでの庭園がすごく良かったのだけど、脇に変な人の胸像があった、北条なんとかサン。展示室内には歴史年表と一緒に、北条氏の勢力図が入口にバーンと示してあった。何度もモンゴルからの来襲があって世の中が騒然とし、そういうときには敵に対処するために勢力の再編が起こるからして、北条氏が本州から九州まで手を伸ばし、逆に他の有力者に押し返されてという有様が一目で分かるようにしてあった。

政情不安で人心が動揺するなか、一遍は日本全国をまわって安心を説き続けたらしい。ここは注意が必要だ・・・死んだらすぐ浄土へ行けるから大丈夫よ、現世のことなんて放っておきなって教えになると、宗教はアヘンだになってしまうし。だけど一遍が何を説いたのかは全然知らない、今後の課題。

ここの解説で良かったのは、ツイッターにも書いたけど絵巻を修復していたら裏の絹に一遍が上半身裸に描かれていたのを服を着ているように書き直された跡が見つかったと紹介してあったことだ。何でも絵の注文者とのやり取りでそう書き直すことになったらしい。教祖さま?が裸じゃ威厳がないってことかね?やっぱし。

あともう一つ、聖絵には「奇跡」「教義」が(殆ど?)見当たらず、各地の風景を含め写実的に一遍の行状が描かれていると説明してあった。そこは個人的に、とっても興味深い。帰宅して調べたら聖絵が作られたのは一遍が死んで10年後らしい、だから未だ神格化みたいなことが起こらなかったのだ。数十年以上もたってから書かれた聖書とはそこが違う!

いやあ一遍聖絵展、堪能しました。感想が偏り過ぎてるって? そりゃあ当たり前です、私は学芸員でもないし、仕事として他人様に解説を書いたのではないのだ。そして知識を増やすことに興味もない、老人力が増して能力もないとも云えるけど。 あと興味があるのは、他の人ならどんな感想を持つか、だ。聖絵展を観た方は是非感想を教えてください。

「うつ」の構造。しつこく第3章・・・論より証拠

修飾語が変かも知れないが、文章がのっけから結構、衝撃だった。
「はじめに」から、いきなり「うつ病の概念も病態も変わった。」である。
何事だ?!
しかも「1960年代・・・内因性うつ病の臨床経験を持つ臨床家であれば、この現実を否定するものはいないであろう」とまで言う。そして「諸家が指摘する病像そのものの変化」と続く。

「概念」が変わってもいいと思う。新旧の対照ができればいいだけなので。
しかし「病態」が変わった? 「病像」が変わった? そしたら何が共通なの? 牛島先生は、何をもって新旧とも「うつ病」とするの?
それを知るには本文を読むしかない。牛島先生の説く「変化」を一つずつ追ってみる。
「軽症化」。軽重にかかわらず、思考制止があるという。軽い思考制止ととるかって問題かも。
「不安症状の併発」。自分の経験した症例で、大学病院(牛島先生の病院ではない)に入院をお願いしたら、退院時紹介状に「不安を主症状とするうつ病」と書かれていて、ひっくり返ったことがある。
「躁的要素の混入しやすさ」。別にこれは良いんじゃないの、気分障害だし。
「病前性格の変化」。「内因性うつ病」をいうなら、これは重要ではないのか。「あまり目立たない性格傾向」でもいいの?
「発病における状況因の変化」。喪失体験でなく、傷つき体験に変わってきたという。「傷つき体験」を契機に発症したら「うつ病」でなく、「心因反応」か「神経症」と診断する精神科医も多いのじゃないか?
いやいや契機でなく、症状やら病態構造やらをしっかりみれば両者は区別できるのだ、それが名人ってものだと、この本に出てくる内海先生や古茶先生なら主張するかも知れないけど。
そこで思うのは、「論より証拠」である。
精神疾患の診断を語るとき、牛島先生も書いた「1980年に導入されたDSM-Ⅲの影響」は外せない。医局の古い先生にお会いする機会があって、そのときに面白い話を聞いた。若い精神科医(もしくは医学生?)が米国精神医学会のボスの病院に患者を装って入院し、そこでの診断治療を通してDSM-Ⅱの不備を暴き出し、DSM-Ⅲをそれまでの路線から大きく方向転換する契機にしたというような話だった。
アメリカ人って偉いよねーと、私はひどく感心した。身近ではあんまりそういう事をする人を見たことない。お行儀良くすることに専念して、蛮勇を振るわないのだ。
それを私はこの本にも感じる。例えば牛島先生が文中で紹介した症例に対して、他の著者はどう診断するのか言ってみろってんだと、私は本のこちら側で思う。もっと良いのは、実際の患者を一緒に診てそれぞれがどう診断するか比較してみて欲しい。本にするときに個人特定されないようにすれば良いだけじゃないかと思うので。そうしないのにはいろいろ理由があるんでしょうかねー。
話はころっと変わって私なりの結論。「内因性うつ病」の理念型に固執してそれ以外はうつ病じゃないと診断していた従来診断は間違い。0をうつ病とするって言っても、現実の世界に0に限りなく近い事象はあれど、0はないだろう。やっぱりうつ病もスペクトラムなんじゃないの? だから「境界」ってものは実際なくて、DSMみたいに新しい版になる毎に基準が変わっても当然でしょうよ。
しかしま、論より証拠たって、「論」がなきゃ情報交換というか文殊の知恵は出ないわけで、どうすれば良いんでしょうねえ。

マインドフルネス・・・これまた元サイトから持ってきました

マインドフルネス 

 ヴィパッサナー瞑想に続いて、今度は今朝の新聞に「マインドフルネス瞑想」の記事が載っていた。某有名精神科医がクリニックで指導しているという。

静かに座って、目を閉じて、心を落ち着ける・・・雑念が浮かんできたら、自分の呼吸に意識を集中する・・・そういうふうなことが書いてあった。

全然習ったことはないのだけど最近またヨガに関心があって、年が明けたら短期間だけインドに習いに行こうかと思っている。インターネットで検索して知ったのは、ヨガは「解脱」に至る修行の一つだということだ。あるサイトにはいわゆるヨガの合間に講義でこんなことを聞いたと書かれていた。

自分は「壷」だと思っていて、実際に現世では「壷」かも知れないが、壷は土で出来ていて壊れると土に還る、一つの「壷」は他のものになったり出来ないが、土は他の土と混ざり合って一つになる。
自分が自分がと言って利己的になったり他人とは別だと思っても、現世の自分は儚いのだ、人類全体、地球全体が大事なのだ、みたいな。

うーん、そんなコト言っても今の自分は大事だし、どうせ「壷」だから早く壊れて土になっちゃえとも思えないし。だいたいそれって現状追認、インドで言えばカースト制度是認、生まれによって人生が決まるのを当然視するのにつながるんじゃないかと思った。
日本ならブラック企業に勤めちゃった場合も、どうせ現世はすぐ過ぎるから言われた通りに働いていれば良いってなるんじゃないか? アメリカの超有名企業が社員の研修にマインドフルネスを活用していると書かれていたのもクサイ。社員を洗脳して思い通りに働かせようってこと?
そんなふうに疑念が次々と湧いてきて、そのあと別に瞑想したわけでもないけど別の考えが浮かんできた。

 

 

 

 マインドフルネス、続き

 困った状況に置かれたときって、誰でも冷静さを失いやすい。怒り、困惑、焦り、、、そういう情動に支配されてしまうと、自分がどう対処するべきかを冷静に判断するのが難しくなるのだ。落ち着け、冷静になれと自分にただ言い聞かせても、すぐには出来ない。

瞑想というのは、周囲をありのままに見て冷静に判断するための技法なのかも知れない。そのあと現状を追認しようと、改革を志そうと、ダライラマみたいにチベット民主化に一生を捧げようと、瞑想で得た精神状態をどう使おうがご自由にどうぞってことじゃないか。

どうも研修、指導というと、大勢で集まって富士山の裾野で号令の下、一斉に大声を張り上げるとか、同じ事を唱えるとか、全体主義、洗脳、みたいに自分の場合は思考が進むようだ。だけど瞑想することで逆に、不要に自分を縛るもの一切から自由になる、のかも知れない。
そう、今の自分にとってすごく大事で、それを失ったらもうお終いだ、みたいに思うものがよく考えればそうじゃなかったと気づくみたいに。

この仕事に失敗したら、この受験に合格できなかったら、この課題をうまくこなせなかったら・・・よーく考えると「その場では困る」かも知れないが、「お終い」なわけがない。
テンパっているときに、それを思い出してふっと肩の力が抜けるような・・・それなら瞑想してもいいかなあとも思うけど、まあ面倒なのでやらない。

ひとり読書会『「うつ」の構造』再び第3章

『「うつ」の構造』再び第3章  

 牛島先生なのでそりゃあ当然かも知れないが、うつ病に限らず精神療法についてこの章に書かれていること全部ナットクである。 しかし身近では研究会だの勉強会だのに行っても、そんな内容を聞いたことがないが何でだ?、演者が牛島先生じゃないから??(爆)

まあとにかく、良いと思ったところを引用する(途中一部省略)。

「精神分析的治療では・・・内因性うつ病では自我と対象の分離を図るべく自己に対象と対峙させる接近が勧められた感があった。しかしながら、その精神分析的努力はことごとく失敗に帰したことを銘記しておく必要がある。

その一方で、精神医学的にはシゾイド、循環病質、神経質そのものには手を加えようとはせずに、それぞれの基礎人格の上に社会的人格を再構築すべく手を貸す治療的接近が試みられてきたわけである。

いわば、両者を比べるとき、精神医学的接近の方がより有用であり、無理がないことは論じるまでもないであろう。」

そう、「分析」では「育てなおし」だとか何だとかって、基礎人格を作りなおそうみたいな気色の悪いことを言われたりする(と私は解釈している)が、余計なお世話よねってことだ。

 

  『「うつ」の構造』、再び第3章

 では何をするかというと、引用に戻る。

「筆者のような古い世代の治療者であれば指導というかたちをとることになるであろうが、同世代の治療者になると、場面場面での考え方を話し合いながら身の処し方を二人で捜していくという過程が待っている。
これは認知行動療法におけるポジティブ思考の探究に通じるであろう。

当然のことながら、この接近が、うつ病がもたらした低下した自己評価を高める接近、あるいは新しい人生方向を捜し求める接近に通じることは論じるまでもない。」

「患者に生活を遂行していくことの自信喪失、いわば自己評価の低下があることを認識しておくことである。そして、その背後に発病時に持った社会生活の中での傷つき体験があることも知っておきたい。」(引用ここまで)

とにかくうつ病では「傷つき体験」に伴って「自信喪失」があり、日常生活において歯車がずれてうまく回らなくなっているので、「身の処し方」を話し合いながら自己評価を回復させていきましょうということだと思う。

そういう精神療法に加えて、休養や環境調整が必要だったり、時と場合に応じて薬物を投与していきましょうってことで、うつ病の治療はメデタシめでたし、何の問題もないじゃん・・・かというとそうでもない。

牛島先生の文章にも出てきた「傷つき体験」については、診断が「内因性うつ病」なのか、「心因反応」なのかが大問題なのだ。それを書くと長くなるので、次回に。

ひとり読書会「うつ」の構造、第3章

ひとり読書会「うつ」の構造、第3章 

 内因性うつ病とは?、のその前に。牛島定信先生

大御所というか超有名どころの、精神分析の先生だ。学会でのご発言もおそらく何度も聞いていて、納得できる点が多い。(もちろん精神分析の学会なんてものには行かない。精神神経学会とか、そういうのだ。)だから
『「うつ」の構造』第3章も期待して読んだ。

読みながら、れれれ、じゃあ内因性うつ病って一体なんなの?と考え込んでしまったのだけど、その前に印象的だったことを書きたい。印象的というよりは、よくぞ分かってくれました、そういう人もいてヤレ安心って感じである。

そのまま引用する。・・・現在は、すでに保育園ないしは幼稚園において、孤立ないしは一人遊びを受け入れる環境にはなく、何かと集団での生活を強いる社会的風潮にある。・・・幼児期からシゾイド的な生活が保障されない状況にあるといわねばならない。それだけに、性格の基本とは逆方向の生き方を強いられることによって人格的な歪みをきたすことになっているのである。(引用ここまで)

あ、あれ? 引用するためにもう一度読んでいたら「人格的な歪みをきたす」と書いてある。そうすか? 歪みっすか? 今はやりのレジリエンスとは云わないでっか? ちょっと憮然としたのだけど、まあレジリエンスが良い方に働いて強くなる人も、悪い方に働いて「歪む」人もいるというか、まあ大抵はそれが混ぜこぜになっていると思うので、いいことにする。

分かってもらえたと思うのは「孤立ないしは一人遊びを受け入れる」ことが良いニュアンスをもって、「何かと集団での生活を強いる」ことが悪いニュアンスをもって、「シゾイド的な生活が保障される」ことが良いニュアンスをもって書かれていた(と私は解釈した)からだ。

 

 ひとり読書会「うつ」の構造、第3章  

 学校教育(保育園や幼稚園も含めて)は社会化するための装置なので、「孤立」「一人遊び」から集団に入れるよう「成長させる」、「シゾイド的な生活」を矯正することが正しいってのが前提だ(と思う)。そうでないのを「受け入れる」「保障する」と書いてくれただけで、やれやれ助かったと感じる。

・・・まったく学校ってのは「シゾイド」にとっちゃ辛いところだ、人間にはレジリエンスが働くので結構どうにかなるといえば、どうにかなるもんだけど、互いに厄介なことには変わりがない。

以前にも書いたけど、学校教育には大きな矛盾がある。強制されて選択の自由がないものを楽しめ、積極的に参加しろというのだ。しかも多くのシゾイドにとって苦手部門でそう言われる。国語算数の授業で仏頂面していても叱られないが、運動会やら合唱祭、家庭科実習でふて腐れた顔していると大抵はもの凄く怒られる。学校って、つくり笑顔、つくり笑い、つくり盛り上がりを勉強するトコロでっか?

そうだよ当たり前じゃん、何しろ社会化の装置なんだからって今では思うのだけど、子どもの頃にはそれが一番ナットク行かなかった。

そこを突きつめると、社会化の要素のうち空気を読んで従順に、協調して動くことがまず求められる人はその訓練を集中的に、読み書き算盤が必要な人はそれを教える装置に、巧妙に振り分けられているなあと思うけど、あんまり書くとヤバそうなのでこの辺でやめる。

あ、とにかく牛島先生が本人の性格と周囲の環境との相性を重視していることに、とても納得したのだった。何ていうか精神分析は生育歴やらそこからきた本人の人格構造にばかり目を向けて、環境の影響を考慮しないイメージがあったので。ていうか精神分析に限らず、そういう風潮が強いと常々感じているので。

肝心の内因性うつ病については、次回に。

ひとり読書会、「うつ」の構造-第5章

  ひとり読書会を始めて、さっそく困った。日本語なので単語の意味はだいたい分かる。だけど、何だこりゃいったい、としか感想が浮かんでこないのだ。

お終いにするってのも一案だけど、そうはせずに取りあえず自分にとって取っつきやすい章から読んでいくことにした。で、第5章、序文によると「記述精神病理学に精通した古茶大樹」先生から始める。
・・・前半の総論はエライ先生に対して失礼かも知れないが、全く同感ですとしか言いようがなかった。

精神疾患には身体的原因が見つかっていないものが多い。同一の身体的原因で発症する疾患の「種」として同定できるのでなく、似たような症状の揃ったものを仮に集めて作った「類型」にあてはめるしかないことが多い。その「類型」に該当する症例をたくさん集めて身体的原因を追究して、同一の身体的原因が見つかれば見事その「類型」は、病気の「種」に昇格することになる。

しかし精神疾患で「類型」から「種」に出世を果たしたものは多くない。例えば進行麻痺が梅毒だと同定されたぐらいしか。

 

   そういう例外ではなくて、ある「類型」に該当する症例を集めて身体的原因を探っても見つからない場合にはどうするか? その「類型」の決め方がおかしいんじゃないかと疑うことになる。疑って、新しい「類型」を提唱して身体的原因を追究していきましょうってのがDSMの一つの狙いかも知れない。

そして身体的原因なんて見つからなくていいよ、名人が診断したらそれを鵜呑みにすればいいよと言ってるのが、私からすると編者の内海健先生だ。

じゃー第5章の古茶先生は? ここからは第5章の後半だ。うつ病、「体験反応」、退行期メランコリーは別々の「類型」に分けるべきで、仮面うつ病はうつ病の類型に含めるべきだとお考えのようだ。ていうか先生の記述精神病理学では、その3つ(4つ?)の類型に先生があてはめる症例は、似たような症状が揃ってないらしい。そして治療も全く違うから、別々の類型に入れないといけないらしい。

しかしこの3つ(4つ?)の類型とも身体的原因が分かっていない、ていうか分かっていたら「種」になるので「類型」と言った時点で分かってないってことだけど、ホントに4つとも別物なのか、将来どういう組み合わせで同一の「種」と判明するのか、読んだ側には判断しようもないわけで、ほとんど内海健先生の、名人が診断したらそれを鵜呑みにすればいいよってのと変わりがない。信じるか、信じないか、洗礼受けますかどうしますかって、宗教の話のような感じがする。

うーーーん、困った。で最近めっきり足が遠のいてしまったけど、医局の症例検討会を思い出した。もちろん検討が必要ってことは、そりゃ身体的原因が分かっていなくて、どの「類型」に入れましょうかっていう症例だ。

 

   だいたい若手が自分の想定した類型に対して、お偉方がケチをつけるというか、意見をする。が、、、類型はどこまで行っても類型で決め手はないわけだから、お偉方が想定した類型と違うとエライ事になる。お偉方の想定した類型に当てはまる点はないのか、この点はどうなんだ、この症状はあるか聞いたのか、こういう観点から考えてみたのか、等々と終わりがない。
しかしたとえ診察時間に制限がないとしても、どの科の疾患であろうと総花的に何でもかんでも想定して調べてってことは普通しない。こっちの方面かなと目星をつけて、そこを重点的に検討していくので、想定が違っていると検討してないことだらけで、症例を提示した者は叩かれ放題になる。
ていうか、他科の疾患で想定=疾患の大きな分類がまるで違っていることはあんまりないだろう。ていうか身体的原因が分かっている疾患については、大分類が違っていれば全くの誤診だと判明してしまうので困ったことになる。

しかしまあ精神疾患は身体的原因が分かってないものが多くて、「類型」も誰かの想定にしか過ぎなくて後から見れば本物かどうだか分かったもんじゃないので、誤診かどうかも不明。じゃー自分の独自の「類型」で診断するとさすがに怒られるので、誰かの作った「類型」、例えばDSMで診断しましょうというと、その「類型」は使いものにならんと言って怒られたりもする。あちゃー。

医局の勉強会はお偉方の想定しそうな「類型」で話を作って持っていくのが無難よねってことになる。

しかしお偉方の想定した「類型」を無批判に受け入れるなら、それは科学ではなくなるわけで、仕事のあとに行っているお稽古ごとと同じになるわけで。・・・私のお稽古事はどれも初心者の域を出なくて、指導者を真似て体を動かそうとそれだけで精いっぱい、名人になれば師範のここは違うよねーって違う流派を作れるのかも知れないが。名人になるまでは要らんことを考えずに真似だけしとれって、うーん精神医学もお稽古も同じか・・・。どうしても思考がそこへ行く。で訳分からなくなって、この章はおしまい。

ひとり読書会、「うつの構造」続けます。

今日のところは、元の当院サイトから引っ張ってきました。続きは、そのうち書きます。

ひとり読書会.「うつの構造」の1

「うつの構造」神庭重信・内海健 編 弘文堂

読書でもしようと思うのですが、周りにご一緒してくれる友達がいないので、ひとり読書会やります。

コメント歓迎です、ただし多分お返事はしません。代わりに匿名にして、こんなコメント来たよと、このページに出すかも知れません。ネット上でなく実際に読書会をしたい方もメールをください。どうぞ宜しく。

実はこの本はだいぶん前に買いました、ある期待をもって。精神科医になって間もなく気づいたのは、大学によって同じ人を診ても捉え方が違っていて、住み分けているらしいことでした。そして特に下から上の立場に向かってしてはならない質問があること、違う考え方の精神科医(達)に口出しをしてはいけないことでした。

 

  ところが、この本は精神病理学と精神薬理学の専門家と医療人類学者がそれぞれ書いていて、しかも序文によるとワークショップでの議論を通して新たな理解の極みを目指したとありました。議論では「批判的な対質が繰り返され、異分野の交流は遺憾なく深められた」そうです。

・・・ですが、買ってすぐ読んだときには、その議論は当たり障りのない表現に隠されているのか、どこに「批判的な対質」が繰り広げられているのか、私には発見できませんでした。何ちゅうか、これって各々が自分の分野を書いただけじゃんって思いました。

ついでに言うと、著者の一人に会いに行きました。ほんのちょっと交わした言葉から判断してはいけないかも知れませんが、真理の探究よりケンカしないこと・お友達を作る方を大事にされているように感じました。

それから結構たって私も少しは進歩していて同じ本を読んでも結果が違うかも知れないので、また読んでみることにしました。毎月1章ぐらいは読み進めたいと思っていますが、できるでしょうか・・・。